Taka_solohamの日記

ヨーヨーマスターTAKAの過去ログです。途中からツイッターの転記のみになっていますが、以前はメインコンテンツを展開していたので過去に遡ると文章がいろいろあります。

ヨーヨーマスターという生き方とその十字架


ヨーヨーマスターという言葉の重み、しっかりわかって受け取ったつもりです。ヨーヨーマスターの称号を受ける、ということは入り口に立たせてもらっただけで、ヨーヨーマスターという肩書きを活かしてどこまでヨーヨーを広めていけるかが、本当のヨーヨーマスターの道だと思います。

ヨーヨーの世界大会の一つの側面は、わかりやすいヨーヨー界というものを作り上げることで社会的な認知度を上げる一つの材料とすること。思いっきりぶっちゃけていくと世界チャンピオンも世界チャンピオンになることに1つの価値はありますが、世界大会を開いている側からすると世界チャンピオンになって終わり、ではなく、世界チャンピオンという一つの価値を与えたことでヨーヨーというものをより多くの人に知ってもらう機会にしてもらいたい、ヨーヨー普及の一つの道具として使ってもらいたい、というのがあります。ヨーヨーマスターはその1つのバリエーション。

世界チャンピオンに限らずすべてのチャンピオンにある責任です。

ヨーヨー界では過去の実績と存在感をあらわす一つの称号として理解されていると思いますが、ヨーヨーマスターの実態はだれも説明できません。でも外の世界からすると一つの権威として見て取れることでヨーヨーマスターという価値を活かしてどうヨーヨー界を広報していくかが、マスターとしての道。マスターという名前、それ自体に価値はありません。

んー。言葉が汚いので幻滅してほしくないんですがヨーヨーの世界って面白いと思います。

最近言う人が減ってちょっと残念なんですがアメリカではヨーヨー人、というかこの独特のコミュニティーをいいあらわす面白い言葉としてState Of Yo(ヨーヨーの国)という言葉があります。
よく、昔は僕らはヨーヨーの国に住んでいる、なんていう表現があったんですが、日本で言うとヨーヨー友達をあらわすヨーとも、だったりヨーヨー人、という言葉がそれに近いニュアンスを持っているかもしれません。ヨーヨーという一つの価値観を共通にするコミュニティー、その仲間たち、という仲間意識ともいえる言葉です。

ヨーヨーの楽しさの半分はここにあると思います。人とのつながり、ヨーヨーを通じたコミュニケーション。途中からヨーヨーのトリックができることよりも仲間ができることの喜びが大きいことに気がついてくると思います。仲間が居るからヨーヨーを続ける気持ちになる、モチベーションになります。
昔に比べインターネットが普及しているので一人の孤独な環境でヨーヨーを続けるということもなく、少なくともWebを通じてコミュニケーションをとることが可能になり、地域差を超えたヨーヨーを続ける環境というのが整ってきている、それ自体はとてもいいことだと思います。ますますこれからも発展していくと思います。

そんな部分もひっくるめて、ヨーヨーしている人の多くがヨーヨーの国に居ます。僕らは一つの共通の価値を持つコミュニティーにいるんです。

でも、その存在の仕方は人それぞれ。どれが正しいというのはありません。ただヨーヨーの国に"住んでいる"人も居れば"旅行者として"観光をしていく人もいれば、"留学をして"、いつかは卒業をする人も居ます。また今は離れているけれど遠い別の国からヨーヨーの国に常に思いを寄せている人もいるでしょう。

あなたはどんな姿でヨーヨーの国にいますか?なんだかネットワーク上のアバターのようですが、そんなキャラクター(ヨーヨー界での存在感)、みんな持っていることを意識したことありますか?

ヨーヨーマスターはそんなヨーヨーコミュニティーに存在する普遍なシンボリックな存在として、あるのかもしれません。(神様じゃないですよ。動かないランドマーク、というかいつもそこに在る存在)*1

うまく説明できませんが、ヨーヨー界の根っこの根っこにはヨーヨーを広めていく(Promotion)と続けていく(KeepYoing)という2つの大きな意思があって、ヨーヨーマスターたちはそれを実践しているんです。

宗教っぽくなってきたと思いますが、多分ある意味宗教です。多くの人が普段それを意識していませんがヨーヨー活動のほとんどは上の2つの言葉に集約されます。大会も現時点ではこのために行われているといっても過言ではありません。*2
いま日本のヨーヨーコミュニティーもうまく機能をしてきているように思います。アメリカにあるお手本を元に日本風にアレンジして練習会、大会が行われヨーヨーのWeb上の交流も盛んです。日本ならではのよさもあり、またアジアという広がりも持つことができてとてもいい感じです。

アメリカでたくさんの刺激を受けてきたプレイヤーたちがその刺激や感動を日本のプレイヤーたちに還元していく流れができてきていると思います。ヨーヨーを通じてできる多くのよい経験はその人を成長させ、その人の中で終結してしまうだけではなく、次のプレイヤーに流れとして引き継ぐためにあるべきです。97年にヨーヨーマスターのデールオリバーにあったときに僕はたくさんの気持ちを受け取りました。ヨーヨーへのかかわり方が変わったターニングポイントでした。*3

ヨーヨーの大会で勝てること、勝たせてもらうこと、それは自分の喜びだけではなく、ヨーヨーを始めるきっかけを与えてくれたデールオリバーたち、グランドマスターたちにとっても喜びであること。そして勝った人はその責任として、次の世代、次のプレイヤーにバトンとしてヨーヨーの楽しさ、喜び、この大きな流れを引き継いでいくこと。いったんヨーヨーをはじめてヨーヨーの大会、ヨーヨーコミュニティーで存在を得てその喜びを得たらそれをまた還流、還元していくこと。それがヨーヨーをしている人みんなに意識として持ってもらいたいことです。

とは言っても趣味でやっているヨーヨーに対してそこまで言われても意味不明かと思いますし、ヨーヨーをするのにそこまで意識しないといけないかと言われるとそんなことはありません。ヨーヨーは誰にでもできる気軽な遊びです。

でももうヨーヨーを何年も続けてきて、ヨーヨーをこれからどうするか考えていかないといけない人たちには意識してほしいと思います。

思いっきり恫喝口調ですが、奪うだけでやめていくのか、ヨーヨーを通じて得た多くのものを自分なりの人生を通じて多くの後輩たちに還元していくのか。*4

なぜ技を隠すことで勝ち続けられるはずの”競技”でトリックを隠すことをしない流れになっているのか、ヨーヨー界に最初に飛び込んできたときにコミュニケーションのきっかけとしてそのトリックを教えて、ということを言いやすい雰囲気になっているのか。すべてはヨーヨーを広めようという大きな意思の元、ヨーヨー界として意識して形作られてきています。HPKのアランナガオ氏も明確に言葉にしていっていました。大会のためにトリックを隠すことは仕方ないけれど大会が終わったらみんなでそれを共有してくれ、と。ヨーヨーはそういうスポーツじゃないんだと。最初の人たちの存在があって、その人たちが作り出した流れの中でヨーヨーというコミュニティーは成り立っていて、その根っこは

Promotion(広める)

Keep Yoing(続ける)

その2つに集約されます。なんでヨーヨーに対してそこまで思い入れをもつ人が出てきたのかは不思議ですがその思い入れがあったからこそ、世界大会も実現したし、いまの規模のヨーヨーコミュニティーになっています。私自身もその流れの一番濃いところに触れてしまっているのでいまにいたるわけです。

いま日本のヨーヨー界は未曾有の危機を迎えています。ヨーヨーの世界チャンピオンが6部門中5人、とかくと安泰のように思えますが、これは日本のヨーヨー界がシステムとしてプレイヤー養成の優れたシステムを持っているためではなく、個人の努力によるものです。その個人の努力も、これから年齢を重ねるにつれ、ヨーヨーを続けるモチベーションと環境を保つことが困難になってくれば競技レベルの維持はとても難しくなってきます。大会で勝つことが優れたコミュニティーの象徴、ということではないですが。

もうみんな十分に恩恵を受けてきていると思います。もう一歩意識のレベルを切り替えて高いところに持っていって2つのキーワードを意識したヨーヨーをしてもらいたいと思います。

まだ多くの人がバンダイが大会をやっていたころの意識のまま、ヨーヨー界に能動的に参加する、というよりは受動的な参加が多くありませんか?小鳥が親鳥にえさを与えられるのを待つように受身になりすぎていませんか?

んと、だれか特定の人に対するプレッシャーのつもりでもないし、一般論として、自分自身の一つの考えとして書いています。こんなことを言わなくても多くの人がヨーヨーのデモをしたり、ティーチングを実践しているし、最近の練習会や大会が多く開かれている流れはすばらしいと思います。またヨーヨーをしていること自体がすでにヨーヨーを広めることになってたり、KeepYoingは言うまでもなく。ただ明確に意識しているのと無意識なのでは違うと思います。

ちょっと上からものを言う感じになっちゃっていやなんですが、ヨーヨープレイヤーの一つの面の定義させてもらっていいですか。

プレイヤー=競技者ではなく

ヨーヨープレイヤー(ヨーヨーの国に居る人たち)はPromotionとKeepYoingが意識できている人たち、

であるべきです。

ヨーヨープレイヤーというからにはそれなりの誇りと意識も持つべきです。

人それぞれに事情があるし、ヨーヨー歴も千差万別、いまは強くかかわれない、という人も居ます。だからプロモーションをしていないからだめ、というのではありません。気がついているか、意識できているか、それが大事です。1年に一度の大会でもよいし、Webを通じてでもいいです。お祭りや文化祭だっていい機会だと思います。いろいろなかかわり方があると思います。

このままにしておくとなんだかデモしていない人はだめ、見たいなかんじになってしまうので、そうではないよ、ということをPromotionとKeepYoingはそれぞれ別枠で文章を書いていく予定です。

ただもう一度、この文章を読んでくれている皆さん、自分自身がヨーヨーの国にいるということとヨーヨープレイヤー(ヨーヨー人)ってなんだろうって考えてもらいたいです。

今回は話がそれてしまっていますが、次こそ、ヨーヨーで生きる3の続きを。

*1:学校の先生、という言葉で自分の中では認識しています。卒業しないで一緒に居てくれる人も居ますが、ほとんどの人が卒業していくヨーヨー、その中で自分だけが変わらず毎年ヨーヨーをしています。思えば最初に出会った小口圭介くんから始まり、新井田光、鈴木良一、永瀬巧、一緒にトリックを作ったりヨーヨーをした仲間でした。ある意味いまのヨー友よりも濃いつながりでした。ほんの1年足らずの間にとってもたくさんのことがあったけれどもう過去の話。やっているときはやめるなんて想像もつかなかったけれどいつかはみんなやめていくのかもしれません。いまは続ける方向ができつつあるのでちょっとうれしいです。ここらへんも書き出すときりがないのでまたの機会に。

*2:お金の絡む商業主義のほとんどないボランティアベースで行われる大会の本来の目的、気持ちはここにあります。

*3:運命、ともいえるんでしょうが、デールにあったときに最初に言われた言葉がヨーヨーを続けてね、ということ。50年間ヨーヨーをしてきたデールは一時的に熱狂することの容易さに比べて根気よくヨーヨーを続けることの重みをすでに私に示していたのでしょう。

*4:わかりやすくヨーヨー大会でジャッジをするとか後輩を育てるということだけではないヨーヨーと自分の人生の接点、どこかにあるはず。探していきましょう。